このあたりを読んで。
僕の場合は直感的に「自主規制? そんなの駄目でしょ」と反応しているわけですが、 なんでそう思うのかな、と考えてみました。
要は「空気読め」が嫌だ、ということなんじゃないかと思うわけです。 これはただの言い換えですけどね。 法律で規制されるのが嫌だから自主規制しましょうといった場合、 この時点ではまだ明文化されてないイメージなんですけど、 明文化されてなければ個人によって解釈に幅が出て、 それはルール違反だいや違反ではない、とややこしくなります。 では内輪の規約として明文化しましょうということになるかもしれませんけど、 今度は規約に書かれるのが嫌だからさらに自主規制しましょう、という流れになって、 結局暗黙のルールが残るんじゃないかと。
それから、自主規制していれば公権力は介入しない、ってのも 権力側との暗黙の了解に過ぎなくて、向こうの都合でどうにでもなるでしょ、と。 最終的に法規制されてしまうなら自主規制には意味なんてないんじゃないの、 と思うわけです。
逆に公権力側が求める規制ラインよりも自主規制ルールが厳しかったとしたら、 それはそれで無駄じゃないですか。 そうでなくて厳しさが同じだとしたら、 法規制でも自主規制でもどっちでもいい、ということですよね。
となると自主規制が意味を持つのは 公権力側が「本当は厳しく取締りたいけど、 一応自主規制しているし、まあ見逃してやるか」と思ってるときだけで、 そんな暗黙の了解の上に乗っているのはいかにも不安定です。
だったら、理想論ではありますけれども、 公権力側に働きかけて、 自分たちが必要だと思っている規制の厳しさを明文化させる方がいいですよね。 働きかける、という時点でほとんど不可能に近いんですけど。 だから現実解としては暗黙の了解の上に乗るのもアリかとも思うんですけど、 やっぱり落ち着かないものは落ち着かないですよ。
まとまらないのでこの辺にしておこうかな。 とりあえず身近なところでは、この文章は Creative Commons のライセンスで公開してますが、それは例えば 「引用したいけど引用部が多すぎて著作権法で許可されている引用には当てはまらないなあ。 でも個人のブログ同士だし怒られないだろう」 みたいな暗黙の了解の上に立つのがいやで、 「CCで公開されてるんだから比率を考えずに引用できる」 とはっきりさせるためです。